真田昌幸は、大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁の父親にあたる人物です。
武田信玄の家臣となりましたが、その後次々と主君を変えるなど
権謀術策の限りを尽くして立ち回り、大名として自立を果たしました。
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🔴武田家の家臣として
真田昌幸は真田幸隆の三男として生まれました。
7歳の時に人質として武田家へ送られ、武田信玄(当時晴信)に仕えています。
信玄は早くから昌幸の才能を見抜いており、ことのほか昌幸を寵愛したと
伝えられています。
信玄が父信虎を追放して武田家の家督を継承した後も昌幸は信玄の側近として仕え
信玄が徳川家康を打ち破った三方ヶ原の戦いにも参加していました。
🔴真田の後継
信玄が死去すると、昌幸は武田家の家督を継いだ武田勝頼に仕えます。
勝頼に従って長篠の戦いにも参加しました。
武田軍は織田・徳川連合軍に敗れましたが、昌幸自身は勝頼の旗本であった為に
戦死を免れています。
既に父幸隆は死去しており、真田家の家督は昌幸の長兄、真田信綱が継承して
いましたが、この合戦で昌幸の信綱、次兄昌輝が戦死しています。
これにより、昌幸は家督を継いで真田家当主となりました。
織田・徳川連合軍による武田家への侵攻が本格化すると、武田家は敗北の坂道を下り始めます。
後に家臣の裏切りに遭って勝頼が最期を遂げると、武田家は滅亡。
真田家は織田信長の家臣となって所領を安堵されました。
🔴大名として独立を果たす
本能寺の変によって織田信長がこの世を去ると、旧武田領に進出していた織田軍は
一斉に撤退します。
これにより空白地帯と化した旧武田領は、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らによって争奪戦が繰り広げられる舞台となりました。
昌幸も武田家の遺臣を集めて勢力拡大に乗り出します。この中で昌幸は、上杉、
北条、徳川と次々と主君を変えて各大名を翻弄。
最終的には次男の真田信繁を人質として送り込み、上杉家に臣従して勢力の安定を図ります。その後対立を深めていった家康の攻撃にさらされますが、この時、昌幸は
3倍の兵力を擁する徳川軍を散々に打ち破り、天下に名を轟かせました。
その後、上杉家に人質に出していた信繁が、上杉家と同盟関係にあった豊臣家に移ると、真田家も豊臣系大名として所領を安堵されることとなります。
豊臣秀吉の小田原征伐にも参加し、北条方の城を攻め落とすなどの活躍を見せました。
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【NHK大河ドラマ『真田丸』真田昌幸、戦国時代を渡り歩いた武将】
🔴 関ヶ原の戦い
秀吉の死後、家康の影響力が増大します。
これに危機感を抱いた石田三成らは、家康が上杉景勝を討伐するために遠征を行っている隙を突いて挙兵します。
当時、昌幸は家康の遠征に従軍していましたが、昌幸は三成と姻戚関係にあった為、居城へ引き返して三成の西軍に味方することを決めます。
やがて徳川秀忠率いる東軍の大軍が押し寄せますが、ここからが昌幸の真骨頂でありました。
城に籠もって守りを固める一方で、たびたび城外に打って出ては奇策を用いて東軍を散々に翻弄。
ついには20倍以上の兵力を擁する東軍も昌幸の守る城を攻め落とすことを断念せざるを得なくなったのです。
🔴その後
肝心の三成らが関ヶ原で敗北を喫すると昌幸も敗軍の将として死罪が言い渡されます。
しかし、長男の真田信之らの助命嘆願により死罪を免れ、流罪に減刑されています。
当初は赦免を得て国許への帰還を望んでいたようですが、10年にわたる浪人生活は昌幸から気力と体力を奪っていきます。
やがて病を得た昌幸は、国許へ帰る希望を果たせないままこの世を去ったのでした。
生誕
天文16年(1547年)
死没
慶長16年6月4日(1611年7月13日)
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