現代のお花見と言えば、ほとんどの場合桜の鑑賞を指します。
実は、お花見の文化が始まったとされる奈良時代には
当時、中国から伝来したばかりの 『梅』が鑑賞の対象となっていたそうです。
桜の鑑賞が始まったのは平安時代に桜が日本に伝わって来た後のことです。
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【お花見の歴史と由来について】
この事実は和歌にも記されています。
『万葉集』においては、桜を詠んだ和歌の数よりも、梅を詠んだ歌の数の方が多くなっているのですが、『古今和歌集』になると逆転し、桜を詠んだ歌の数の方が多くなっているのです。
当初、お花見はもっぱら貴族の行事でした。平安時代には宮中で花見が催されたという記録が残っており、これは時期的に見て梅ではなく、桜を鑑賞していたものと考えられています。
特に、嵯峨天皇が桜を気に入っていたようで、毎年桜を献上させていたようです。
これが契機となって、お花見文化は貴族たちの中に根付いていったと言われています。
その後は天皇が主催する宮中行事として定着し、「庭には花の木を植えるべし」(注・ここでいう「花」とは桜を指します)
と記された文献が残されており、庭園を造る際には必ずと言っていいほど桜が採用されるようになりました。
鎌倉時代や室町時代に入ると、お花見文化は貴族たち間のみならず、武士たちの間でも広まって行きました。
吉田兼好が著した『徒然草』にも花見に関する記述があり、ここでは身分のしっかりした人たちのお花見と田舎住まいの人達のお花見の違いについて触れられています。
『徒然草』が執筆されたのは鎌倉末期ですから、この頃になると京都や鎌倉といった政治の中心地のみならず、地方においても花見の習慣が広まっていた事が伺えます。
戦国時代になると、庭園ではなく野外に出て花見を行っていた形跡があり、豊臣秀吉が主催した「吉野の花見」や「醍醐の花見」などは大規模なお花見の催しであったと伝えられています。
お花見の風習が庶民階級に浸透したのは、さらに後の江戸時代であると言われています。
江戸幕府八代将軍徳川吉宗によって浅草や飛鳥山に桜が植えられると、これまでは格調高い寺社が主流だった花見の名所も
庶民に親しみやすいものと変化していったのです。
明治時代になると、庭園や屋敷などに植えられていた桜は燃料として取り壊される事が多くなります。一方で桜を保護する動きもあり、荒川堤の桜並木が造成されたのもこの頃だと言われています。
荒川堤の桜がアメリカに贈られ、ワシントンのポトマック川沿いに植えられて日中友好の象徴となった事は有名な逸話となっています。
現代においてもお花見文化が世間一般に根付いている事は、周知の通りですが、酔った勢いで桜の枝を折ったり、木を傷つけるなどといった問題も発生しています。
楽しみ方は人それぞれかとは思いますが、迷惑を掛けないように節度を守った楽しみ方をするようにしたいですね。
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