真田信之は、大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁の兄にあたる人物です。

父、真田昌幸の謀略や信繁の武勇の陰に隠れがちですが、信之も父や弟に劣らぬ
才能を持った戦国武将でした。

 

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🔴生い立ち

信之は、昌幸の長男として生まれました。昌幸が真田家の家督を継承すると、
信之は人質として武田家に送り込まれます。

その時代に元服を迎えましたが、武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされた時、同じく人質として送られていた母とともに昌幸のもとへ脱出しています。

🔴勢力拡大に貢献

織田信長が本能寺の変で死亡すると、旧武田領を巡る領土争いが発生します。

この時、信之は、真田家800名の兵力で北条家5000名が守る城を
わずか一日で奪還するという武勲を挙げました。

その後も北条軍の奇襲を見破ってこれを撃退し、ときには謀略をもって支配領域を
広げるなどして真田家の勢力拡大の一助を担います。

北条家の次は徳川家康が真田家を狙います。

信之は昌幸とともに徳川軍と戦い、300の手勢を率いて7000の徳川軍を
奥地へと誘い込み、勝利に貢献しています。

その後は豊臣秀吉に臣従し、秀吉の仲介で家康との和平を成立させました。

家康は信之の才能を高く評価してたようで、徳川家の重臣である本多忠勝の娘、
小松姫と信之を結婚させています。

秀吉が北条家討伐のための兵を起こすと、真田家もこれに従いました。

信之もこの一連の戦いで武功を立て、戦後は城主に取り立てられました。

 

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【NHK大河ドラマ『真田丸』真田信之、真田家存続の功労者】

🔴父、弟との決別

秀吉が死去すると、家康と石田三成の対立が深まります。

父昌幸と弟信繁は三成の西軍との姻戚関係にありましたが、信之は前述の通り小松姫を妻にしていました。

この為、父と弟は西軍に、信之は東軍に味方することとなり、真田家は分裂してしまいます。

信之は、徳川秀忠の軍に配置され、真田家攻略戦に参加します。

戦闘が開始される前に、信之は昌幸に降伏を促すための使者として赴きますが、拒絶されています。

実際の戦闘では、信之は信繁の守る城を攻略することを命ぜられました。しかしこのときは同じ真田同士で争うことを嫌った両者の意思疎通がなされ、信繁は城を放棄して昌幸のもとへ走ります。

このため信之にはこの城を守る役目が発生し、以降徳川軍と真田軍の戦闘に関わるはありませんでした。

🔴江戸幕府のもとで

関ヶ原の合戦が家康の勝利に終わると、信之は真田家の家督を継承して藩主となります。

最初の仕事は、死罪が言い渡されていた昌幸や信繁の助命を嘆願することでした。

義父である忠勝らの取りなしもあり、この嘆願は無事に聞き入れられることとなります。

大坂冬の陣、大坂夏の陣に際しては、病気のため出陣することができませんでした。

代わりに息子たちが大阪に出兵しましたが、このとき豊臣家に味方した信繁と交戦したという記録はありません。

その後は藩主として職務を全うし、息子に家督を譲って隠居しました。
しかし、その跡取りが急逝すると、真田家の後継者を巡る争いが起きてしまいます。

幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となりましたが、最終的には孫が家督を継ぐことで落着します。

ところが、この際、家督を継いだ孫はまだ2歳と幼少で、高齢の信之が復帰して実際の政治を執ることとなりました。

この年、信之は死去します。
享年93歳と、この時代としては異例の長命を誇りました。

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生誕
永禄9年(1566年)

死没
万治元年10月17日(1658年11月12日)

 

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