NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公であり、
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて全国に名を知らしめた猛将、真田信繁。
一般には真田幸村の名前で知られています。
戦国時代でも有数の武将として知られるようになった彼の生き様を 追いかけてみる
ことにしましょう。
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🔴生い立ち
信繁は、真田昌幸の次男として生まれました。兄の信之(当時信幸)の幼名は源三郎でしたが、弟の信繁の幼名は源二郎を称しています。
🔴人質生活
当時真田家の当主を務めていたのは祖父の真田幸隆で、甲斐国の武田信玄(当時武田晴信)に服属し、武田家の合戦に参加して活躍を見せています。
しかし、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗北を喫したことから事態は
急変します。
連合軍の侵攻により武田家が滅亡すると、真田氏は後ろ盾を失って織田家に恭順。
この際、織田家へ人質として差し出されたのが、信繁でした。
さらにその後、本能寺の変が発生し、旧武田領を巡る争いが勃発しました。
当時の真田氏は上杉家に服属し、徳川家や北条家と戦っています。
信繁はまたも人質として差し出され、今度は上杉家のもとに留め置かれています。
本能寺の変の後、主導権を握ったのは豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)でした。
真田氏は豊臣政権への帰属を決断します。
例によって豊臣家へ人質を差し出すのですが、この役目がまたもや信繁に回ってくるのです。
この後、秀吉の小田原征伐があり、信繁は父昌幸とともにこれに加わっています。
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【NHK大河ドラマ『真田丸』真田信繁、日本一の兵】
🔴関ヶ原の合戦
秀吉の死後、徳川家康が会津の上杉討伐のために兵を起こすと、その隙を突いて石田三成らが挙兵して関ヶ原の合戦が発生します。
信繁は昌幸とともに西軍に付きました。
徳川秀忠率いる東軍の大部隊が近づくと、城に立てこもってこれを迎え撃ちます。
東軍は当初、信繁の守る城を攻略するため兄信之を派遣しますが、信繁はただちに城を放棄し、昌幸が守る城へと脱出。
信之は無人の城へ入城し、以降は城の守りを固めるため攻撃には参加せず、真田同士で血を流すことは避けられました。
これは信之・信繁兄弟の無言の意思疎通がなされた結果であると言われています。
🔴大坂冬の陣
関ヶ原の合戦の後、信繁は昌幸とともに流罪となっていました。
しかし、豊臣家と徳川家の関係が悪化し戦争の気配が色濃くなると、信繁は豊臣家の呼集に応じて大阪城へ馳せ参じます。
大阪城での籠城作戦が決定されると、信繁は大阪城の弱点であった場所に、俗に真田丸と呼ばれる出城を築きました。
これが大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」と呼ばれるものです。
徳川軍が大阪城に押し寄せると信繁はここに籠もって戦い、鉄砲隊を率いて撃退。
この活躍により、真田信繁の武名は天下に轟くこととなったのです。
尚、信繁が率いた部隊は鎧の色を赤で統一し、真田の赤備えと呼ばれました。
🔴大坂夏の陣
大坂冬の陣の翌年、豊臣家と徳川家は再び戦闘状態に入りました。
信繁はこの戦いで家康の本陣へ突入するなど獅子奮迅の活躍を見せましたが、
数に勝る徳川軍は徐々に豊臣軍を追い詰めます。
何度も突撃を繰り返していた信繁はすっかり消耗し、ついには戦いの中で
命を落としたのです。
この戦いぶりを島津忠恒が述懐した言葉が「真田日本一の兵」だったのです。
生誕
永禄10年(1567年)または元亀元年2月2日(1570年3月8日)
死没
慶長20年5月7日(1615年6月3日) 異説に寛永18年(1641年)
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